2011年6月アーカイブ

まだまだ続く
アート鑑賞

ぐるっとぱす っていう
ミュージアムの入場券や割引チケットのパスを購入したこともあって
ぐるぐるまわってます。
っていってもまだまだ。
昨日はMO+に名和耕平展をみにいく
あ〜もうすご〜くよかったです。
稽古してメゾンドカイザーのパンかって公演で腹ごしらえして っていったのもよかったけど
いやあ
ん〜いいですね。
内容細かくかこうと思ったのだけど
これはぜひ行ってください。
今という時間に生きているのであればいってください。
それぐらいの勢い。笑

MO+の後は ギャラリーもまわったけど
そちらはさておき
まずは、名和耕平展 ぜひぜひ!

そして本日は稽古と仕事の合間にブリジストン美術館
こちらも自分の感性にぴくっとふれたのだけど
とてもおすすめです。
作品のクオリティーがまずいいのと
いま、この時期にこういう展示というのがまたいいんです。
アートにとって楽ではない今の時期に
先人たちだってけっして平坦な道を歩んでいたのではなく
試行錯誤して歩んできたそういう足跡もみれて
元気になります。
展示されてる作品は、海外からかりてきたものではないところも 日本人のもちものばかり
だというところも素敵ですよ。
本日仕事の合間に
実に、、、久しぶりに実家に顔を出す。

何ヶ月ぶりだろう。
気にはかけているものの
なかなか時間が取れず。。。

 先日の母の日舞の発表会のビデオを見せてもらう。
驚くほどに上達していた。
彼女が日舞をはじめて10年。
始めたばかりの頃みにいったとき
はらはらドキドキしてはなんと心臓に悪いんだろう と思った。
それから10年
発表会のまえに持病が悪化して救急車騒ぎまでしたそうで
でも
「ぜったいでるの!」
といいはったそうだ。
父のため家族のため 全身ささげてきた彼女で、
娘である私は、ときおりその姿がかわいそうだな と思っていた。
自分のやりたいことは後回しにしてきていたから
しかし、、今回は絶対譲らなかった。
深夜練習もしたらしい。

父がとった母の舞台写真
ものすごくよくとれてる。
「毎日みてるからわかるんだよ」

ああ、もう愛だわ〜
と嬉しくなってしまった。







好きなものは人を強くする

これは父が言った言葉だ。

20年ほど前 特に実家の両親にとっては
日本ではアートでは食えない。
会社勤めが当たり前という考え方が当たり前だった。

私が ダンス を続ける際 定職に就かないといったら
父も母も絶対的に反対した。

それからどれぐらいしてからだろう。
父が自分のほとんどすべてを注ぎ込んだ仕事を退職してからだったと思う。
この言葉を言ったのは。

人の価値観 や 物事の優先順位は、おかれた環境で形成される考え方によって作り出されていくと思うのだが、

すきなもの
すきなひと
大切なもの
大切な人
そういったものができると
ぐるっとかわることがある。

愛する子供が出来ると お母さんもお父さんも強くなる。
それと似ているが、子供はやがて手から離れる。
愛してる事にかわりはないが、
これが好きだと自分の手で選びとるのとちょっと違う。

そう、
人として生まれたからには

大切にしたいと思う事
好きだと思う事

人でもいい

あるのなら

自分に正直に
人として正直に
生きないと

もったいないではないか



そう思いながら
現在自分の大切な部分の復旧作業中
なにしろ 1年以上お休みしていたのだもの
気になるビーズを拾い集め
気になる事をかたっぱしからみて集めている
そろそろ体で感触を確かめたいところだな
でも、オオモトがクリアーにならんとなあ。
そう
作業中です。

私を強くさせてくれた これ に力を注ぐのです。

アート三昧 続

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お休みの日という認識がすでに自分の中で定着しているようで
ぐっすり寝て
お昼前に目覚める。
寝る前に

「コミュニケーションとしてのアート」
を考えようと開いたサイトがPCにのこっていた。

ゆったり支度して 着たいものを選んで 
出かける。
まずは、国立新美術館。
月曜でもやっている美術館を昨晩調べておいた。
ワシントン・ナショナル・ギャラリー展
ものすごい期待をしてたわけでなく、なんとなく琴線にひっかかったのだ。
みながら気づく。
 今は、作家がそこ(その作品)に向かった理由が気になるらしい と。
肖像画や特別な対象物 ではなく
身の回りにあるはっとするもの そういうものに 美を見出した人々
日常に素敵なものを見いだす楽しみ 今も同じことをしているのよね。
いや、今はその奥にあるものをみせるために切り開いてみせてるようなそんな感じがする。
国立新美術館の後が森美術館だったからなおさら感じるのだと思う。
 マネの絵、
 遠い昔ワシントンへ出張した際、父がかってきたパネルの絵、
 母が印象派について説明してくれたこと絵
思い出しつつ、改めて感謝しつつ、父はどんな思いであれをかってきたのだろう
母はどんな経験からあれを話してくれたのだろうと思いめぐらす。
 はっとさせられた絵は、ドガの鉛筆画の水浴 どんな思いでこの線を入れたのだろう と
思いめぐらす。

見終えて、森美術館へ向かおうとしたときに
ふと地下のショップをのぞきたくなりおりてみる。
ここ、いいですね〜。ちょっとしたプレゼントにいいものがたくさん。
いつか誰かにあげるためのものを買っておくのが好きで、ついつい。。。
いいのいいのお休みだから 笑
日本のミュージアムショップも充実してきたな と嬉しくなった。



森美術館、
たいてい暗くなってから訪れる事が多くて、今日はまだまだ明るくてちょっと新鮮
そういえば、新国立美術館もテラス気持ち良さそうだった。いつも閉館間際までいて、明るいテラスは見てなかったな。みえてなかったな。気持ちにゆとりがあるだけで見えてくるものは格段にふえる。
フレンチ・ウィンドウ展
帰り際によったショップの定員さんが「今回は図録が売れない」と嘆いていた。
当然だと思う。
こういうものなんだと認識した上で意味が出てくるものばかりで
図録 をあらためてみたいタイプのものではないから。
認識する事で特別に見えてくるという点では、前の日記のことばでいうなら演劇的。
ただ、私はこういう展示が日本でなされるようになったことが素晴らしいことだと
感動していたのだけどね。
展示の最後がコレクターに焦点が当てられてる点では、まさにヴォルカノイズの活動とリンクしてる。
 この六本木の街のど真ん中でこういった展示がされてる事を嬉しく思う反面、
パリでは街のど真ん中のポンピドーセンターにあった現代美術館が郊外に移されてる事を思い、やはり日本は少し後追いなのだろうなと思う。
日本のアートシーンが同じような動きを見せるかどうかは、わからない。
これからの鑑賞者にかかっている。

20年前、とあるひとがいった。
「パリは、たとえ食うに困るぐらいの状態でもアートに金を出す。日本はそうはいかない」
さて、今の日本はどうだろう。
 生きる 生活する ということが以前よりリアルな感触としてあって、
危機感、慣れ つかの間の安堵 忘却
こういったもののなかでどういった位置づけをされていくのか?



鑑賞者と逆の立場にもどるとき
直感的に浮かぶのは
コミュニケーション アート
生活を明るくするものとしてのアートというより
人間を照らし出すものとしてのアート
ある部分さらにさらに先へいきながら、ある部分は太古の昔までさかのぼらねばならない
そんな気がしている。
それはきっと今の日本だからできるようなそんなこと

うん、もう少しだな。






アート三昧

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昨日(土曜)は、どたばたと仕事で駆け回った後
ヴォルカノイズの真っ暗茶会に参加させて頂く。
ほんとに真っ暗。。。
光に導かれて座る。
ゆったりとながれる時間の中、問いかけや話をしつつ、おにぎり、お菓子、お茶を頂く。
目が慣れてきても、影でしかものがみえない。
通常何かを味わうときに私は目を閉じるのでよりいっそう味を感じるかと思いきや
味覚が確認できるまでに時間を要し、下の奥で味わっていることに気づく。
通常は、目で見て味をアドバンスで想像してるのだと思う。
食べ物の香りよりい草の香りを以前訪れた時より強く感じた。
五感の創造力とはたいしたもので、闇の中の光 という特別注文でつくられたというお茶菓子は、暗闇でその形を見ようとすると光がキラキラしてみえた。
ラストは鴻池朋子さんによる書、死火山 で終わる。
元気なマグマがぐるりぐるり山の周りを回っているそんな印象の書。

私にとっては書というより絵という感じがした。
死は生や休むよりなまなましく生を感じさせ、
なぜか安心した。
帰路思ったのだが、
生きる事は山を登るような事で、
頂上に死がある。
いや
頂上の上かもしれない。
でも 確かに人が生きていく以上は死に向かっていくわけで、
鴻池さんのかいた火はとても生き生きと私にはみえたから、
よりいっそう納得した。
山を火をかかげて生き生きと呼吸しながら死という雲のそばの頂上に向かう。
どうせこうしていきるのであれば、
内部の火を燃やして燃やしてパワフルに頂上へ向かいたい。
ああ、エネルギー頂いたんだなと改めて感謝の思いです。

 余談ですが、先日土曜クラスの方と山の話していて、思ったのですが
女性はトレッキング派、
男性は山登り型。
 男性は頂上までいき下を眺め、頂上へ到達した達成感と征服欲をみたす。
 女性は、その道のりで出会うものを楽しみ栄養にして、次に何が見えるのかわくわくしながらその道のりを楽しむ。ずいぶん昔、当時の相方と山登りにはまったことがあって、それを思い出しながら思った事。

ヴォルカノイズは、ギャラリーではあるのだが、作品と向き合うためというよりは、
作品に対しての鑑賞者のアクション行動を起こさせる場であると私は認識してる。
だから人と向き合って話してる時間の印象が強い。作品手にとって体全体で鑑賞する。
それをもとに次にどんなアクションを起こすのか、そこがキーになっている。
そう、結局のところ、つくるまでのことは作家のやることで
そのあとの事は、鑑賞者のやること。
鑑賞者の行動が時代を流れても続くならば、作品は生き続ける。
作品を生かすも殺すも観る人間の仕事になるのだ 

 昨日は、暗闇の中に9つの山があって、9人の人がいて暗闇の中それぞれの中にあるマグマを鑑賞するそんな感じがした。

茶会の最後は、窓の外を眺め、「これから皆さんの帰る世界ですよ」というこえのもと
光を放つ電車を眺める。
そのとき不思議な動物のような光の生き物のようなものが
のっそりのっそり通り過ぎていった。

今回のvolcanoiseのイベント 真っ暗茶会 は
6月の奇妙な茶会 とお知らせを頂いていた。
 つまり、奇妙な と自分自身で認識することで
奇妙な体験をしている と自身をはめて遊ぶこと。
 まあ、真っ暗な茶会 なんて、事実奇妙なイベントなのだが
奇妙な とつけることにより 
体験より先に 
奇妙な体験をしにいくわくわく感が高まり
体験しながら
奇妙な体験をしてるのだと味わう。
 
 味を
舌で感じるより先に 
目で見て創造してしまう あの感覚に似てる。

そんなことを考えていたら
言葉の説明より先に提供することになれている自分に気付いた。
ダンスでは、そうだなあ、
変な踊りをしますよ っていってするひともいるけど、、、
見る側は奇妙な体験をする訳でなく みる のだから ちょっと違うかな。

言葉によって認識するせいか、
演劇的だな って思った。
(あくまでも私個人のイメージなのですが、不快に思われる方ごめんなさい)

 ところが、茶会の最後の 光の動物の通過 は、
主催者側も予期しなかった偶然の出来事で、
普通の電車を(不思議な)ひかりをはなつのりもの として観る体制にはいっていたところへ 普通はお見かけできないような 光も形もかわってる電車が通った。
まさに 奇妙な
まじに リアル な 奇妙なものに出くわした という体験になったのだった。

写真でいうなら
この偶然の目撃は
とんでもないシャッターチャンスをひどく長い間食べ続けたような、
そんな手触りがあった。

そんなことも手伝って
この茶会の効果は、私にとって十分にお釣りがくるくらい豊かなものだった。




真っ暗茶会 効果は
翌日になっても続いていて、、、

今日、電車をまちながらミルクティーを飲み目をつぶり即座に味覚を感じる自分を鑑賞しながら、今感じてる味は自分でつくりだしてるものなのだと改めて思う。
こういうものだよと認識することで、舌からの伝達より先に 想像しているのだから。

 そして、ふと 昨日の自分に 気づく。
人の目を観ないで話せる分、
他の部分がよりいっそう元気に働いていたなあ。と。 
自分の奥底が、楽しげに 活発に動いていた事。

ぼこぼこと自分の底のマグマが動いていた事を 動いている事を。


感覚がフル稼働したせいか
前の晩、睡眠時間1時間だったこともあるが
ばったりと寝た。
心地よい消耗だった。
今年にはいってすぐ、写真美術館とMO+へいってそのほかギャラリーも回ってるんだけど
こちらへあげそびれてばかりだった。森美術館へ行ったのはは2月だっただろうか。。。

なにか栄養補給をしたくてふと琴線にひっかかったのがこれ。
オペラシティアートギャラリーの
ホンマタカシさんの写真の個展です。

 先入観をもちたくないから特に情報を頭に入れずみる。
 なぜか見ながらとられる時のことを思い出す。
カメラマンとのセッションはいくつかやってきていて、
撮影の前は、どういうスタンスでたったらいいか、存在したらいいか自分に問いかけつつ
写真にとられることと 絵にかかれる事 の差を一生懸命かんがえて、いろいろみてしらべていたときを思い出す。
いまとなっては、私の中ではとてもクリアーなこと。
シャッターが切られる音をききながら 何をとらえているのか、とらえようとしてるのかが
わかる。逃したなと思ったら時折ひきかえす。
リアルタイムで起こっている瞬間が写真として残されていく。
 絵の場合は、出会い頭にぶつかるような時間と違ってかく側の呼吸をききながらペンや筆の音をききながらある瞬間を凍らせたり1秒ぐらいの瞬間をリピートさせたり、時間のながれをもとらえて作品にしていく人なら、もう少し長い時間のリピートになる。

みながら
そうそう、写真を見る時はこういう感覚だものね。って思う。
こういう ってどういう?
なわけだけど、笑
絵を見るのと写真を見るのとでは使う部分が違うんだよね。
手と足 耳と目 そんな違い 
あれ、結局きちんと言葉にできてないな。苦笑

アートモデルの場合、彫刻 デッサン 日本画 ファッション デザイン などそれぞれ
こちらが出す部分は違う。
今ではやらなくなってしまったが、10年以上やっていたおかげで得たもの。
相手が欲しいだろうものをだしつつ、時折違うものを出して挑戦、挑発する。笑
この辺は写真も同じか。

ぐるりみてまわりつつ、
アートとしてのダンスってことをかんがえ始めたのっていつだったろう?
って考える。

そんなことを考えつつ、
ふと気づく。
この作家さん写真家さん
ものすごく第3者的視点でみせてくれるな って。
それが
ときに自分のみた光景であるかのようにみせてくれる。
第3者というよりは第4者かもしれない。

写真の展示は、恵比寿の写真美術館でよく楽しんでるんだけど、
今回のこれは、
よく、魅せてくれる 展示のし方が観セルということをよくかがえてる。というのかな。
おすすめです。

あえて内容にはふれません。
琴線に引っかかった方はご自分のメで見てみてください6月26あたりまでだったかと。。。

帰りにホンマさんが影響を受けてるという
中平さんの写真集をみる
それは、カラーだったけど、おそらく本来というかモノクロでとってきた人だと思う。
なんで、ってカン。(実際そうらしい)
みて思わず笑みがこぼれる。
今日の傑作
熊谷守一の絵を思い出した。

卓越してる。




ひらり、ふわり
実に久々に
時間を気にせず
自分の気になる事に好きなだけ時間をかける。

とても些細な事
たとえば
日焼け止めを買うのに ぼ〜っと考え込んだり

気が済むまで寝たり

行き先は決めていても、たどり着けなくても
ただ行ってかえるだけでもいいじゃないか と。
ラストを決めてそこにおさめてしまう事よりも
緩めにしておいた方が、収穫が大きいこともある。

可能性は無限だ。
きっと、いつだって。


今日のお出かけ先は鎌倉でした。
いままでは逃亡といってでかけてきたのですが
今回は、逃亡ではないのです。
後追いでかいてるのでなおさらですが
通過点、日々のラインにあります。
でも仕事じゃないから ゆるゆると。
円覚寺 東慶寺 八幡宮 鎌倉高校前
帰りに下北沢でお気に入りのカフェ
気の向くままに 気の済むように

ふとした瞬間に
例えばものに手をかけた瞬間に
フィードバック
日々の生活の中には、たくさんのフィードバックへのドアがしかけられてるんだけど
先に進む事ばかりかんがえてると
ドアノブに手をかける事をしなくなってしまう。
わたしだけかな?
あけてもそのまま閉めてドアの向こうにみたものを忘れてしまう。
もったいないよね。

まあ、キオクなんてそんなものかな。

キオクの走り書き
今日の日記から


写真.PNG

気の向くままにかんにまかせて北鎌倉下車。 
円覚寺。
以前来た時は、数年前の春だった。 
今日は緑が美しくて、気の赴くままに入ってすぐ左へ、
弓道のお稽古中で、清々しい集中力の時間をのぞかせてもらった。
仏像と向き合うと思い出すのは、今年4月に行ったフランスのロンシャンの教会、
体内にいて守られてる感じが似てるのだ。ふと見える隙間から見える外の風景を眺めながらそうおもった。
建物の中に入り、仏様をじっと眺めてたら「これこれあんまりじろじろみるな」って仏様にいわれた気がした。笑
そのままひらりふらりと気の向くままに 
気になったところで立ち止まってゆっくりまわる。 
東慶寺、緑と小さな花が美しい。 
ふと目に飛び込む隙間から見える花とか、ほんとなんでもないけど贅沢な時間 
八幡宮は今日は裏からあがっていつもと違うルート。
お参りをすると、からだがしゃきっと整う感じのするときもあるんだけど、今日は
「べ〜つに君困ってないでっしょ。なにしにきたの〜?」って言われた気がした。笑
ま、おっしゃる通りなんですが。苦笑 そのままおみくじをひき、うん、よし。と。
いつのころからか、自分のひくおみくじの結果が予測できるようになった。 それでも引くのはバイオリズムの確認。
 いつも行くカフェにもよらず、そのまま江の電で鎌倉高校前へ 
サンダルを脱ぎ捨てて 砂の感触を楽しむ。 


写真-8.JPG


 海は冷たかった。 
実際の温度もあるだろうけれど、、、 
 岩に座りながら海を眺めつつノートを取り出して昨晩見た夜のテレビを思い出す 
大震災で大きな被害を受けた岩手県山田町の生活必需品じゃない商店があつまって商店街をだしたお話。ケーキ屋さんにブティックに本屋さんに、、、 
「ファッションはパワーです」 
数年前 アート、ファッション、デザインの違い意味についてかんがえていたとき 
某大学のファッション科の先生に「ファションとは?」とおききしたときの言葉。 
 人が生きていく上で大切なもの これを今考えていて、というのも創る作業へのシフト時期で、何を今自分がつくりたいか?と問いかけてるからなんだけど。 
自分自身のスタンスと向かう先を明確にしたくてね。 
今出来る事あるでしょ?というばたばたする自分と いや、まて という自分との間でね 
今と自分と掘り起こしながら、、、考える 
 生きる上で必要なこと 生きる気力 生きるパワー 
確かにそこにある海の底にあるような何か もう少しでつかめそうなんだけど。 

今日は暑かったせいか裸足で海を眺める人は数人いたけど、入る人はいなかった 

江の電にのり小田急線に乗り、下北沢でおりる。気の向くままに。 
ここにお気に入りのカフェがある。行く途中こだわってこだわってつくってる洋服屋さんをみつける。人が肉体でつくりだすものは文字にせよ服にせよ力がある。 
 カフェで、店主がこの季節のためにブレンドして丁寧に入れられたコーヒーを頂く。なんともいえないいい香りの中で、壁にかけられた絵のお魚たちが泳いでいて 
不思議な水族館にいる気分。 

地元駅にたどり着き橋の上で一服。 
家の窓から漏れる明かりを見つつ、白熱灯がなくなってきてる話を思い出す。 
人の肌に近い明かりなのだけど。。。 

何が一番よい事なのか 
そんなことはあとになてみなければわからない 
ただ、いつだって大切なのはひとつひとつよくよく勘を働かせて選びとる事。
うん、もうすこしだ。


写真-7.JPG

いい時空

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久しぶりに恩恵さんのクラス受けさせて頂きました。
今回は、自分自身のモードのシフトというか
フィールドワーク的な感覚で、人の踊る体をみにいったつもりだったのですが
もちろん、みていましたが、
素敵な時間を恩恵さんから頂いたそんな印象です。

頭の中がうまくシフトに入ったようで
帰りの道で、スパンと視界が開ける。
日々の小さなものの気づきとかよりも
おおきなひらめきみたいなもの。

幕開けです。

ありがとうございます。

目の前に飛び交う光に敬意をこめて。

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